ドクターズブログ

初切り (2007年11月10日 19:17)

「A,ベービー、3カ月、CL,CP。・・・・」
教授がクリニカル・カンファレンスで集まった若手医師達に目を巡らす。
CLとはクレフトリップ、すなわち口唇裂、CPとはクレフトパレート、すなわち口蓋裂を表す。
教授と目が合った。
「酒井はまだ初切りが無いな!よし、酒井だ。スーパーバイザーはH講師、しっかり指導してやれ!」
H講師が私に目配せをしながら答える。
「分かりました。」
私は内心(やった!)とばかり目を綻ばせる。
「はい!・・ありがとうございます。」
つまり、教授から『初切り』の許しが出たというわけだ。他のヤツに先を越されがちだった私も、やっと研修医(レジデント)として胸が張れる、というものだ。


クリニカルカンファレンスは毎週月曜日医局で開催される。翌々週の手術の術者を決め主治医が任命される。教育目的で若い医師に術式を説明させたり、意見を言わせたりもする。また難しい手術の意見交換で激しいバトルを繰り広げることもある。

医局というと特別な部屋を連想するかもしれないが、たいていは汚い倉庫のような所である。当時我々の属していた大学の形成外科学教室の医局は旧病舎のの4階の角にあった。もはや病室として使われていない昭和30年代の建物の一隅である。手あかで錆びきった真鍮のドアノブ。大きな音をたてるドア。真ん中に30人くらいが囲んで座れるようにして並べられたスチール事務机。正面にはやや大きなホワイトボードが掲げてある。しっくいの壁はところどころ穴が開いている。窓は今では見る事のできないスチール性で一部開閉ができなくなっていた。書棚以外は窓と壁際に安物のカウチが並べられている。当直の晩にここでうたた寝をし、白衣を掛布に朝まで横になってしまった事も多い。

今では信じられない事だが、当時は医局の机に吸い殻が山となった灰皿がいくつも置かれてあったのだ。
教授がいなければ、みんなぷかぷかタバコをふかしていた。


クリニカルカンファレンスの時はこんな医局にほとんどすべての形成外科医局員が集合し、彼らは暑く蠢いていたのだった。机周りに助手以上のスタッフ、まわりのぼろカウチには若い見習いスタッフが陣取っている。

カンファレンスが終わると若手医師の勉強会を兼ねるデザイン会が引き続く。
デザイン会では、研修医が若い順に、ある手術患者さんの手術デザインを白版に描かされる。教授に名前を呼ばれると皆の前で説明を加えながら絵を描いていくのである。まるで美術学校のようだ。
1年生は、前へ押し出されたものの顔だけ真っ赤にしてなにもできない。学年が上がると中には「ほ〜」と感嘆の声を挙げられ、得意そうにする者もでる。

最後は教授が、海外の文献等広い知識を披露し総括が行われる。
続いて、英語論文の詳読会が行われる。ここで英語のテクニカルタームを覚えるとともに、基礎から応用まで形成外科の学問を習得するのである。

最後に学会発表の演習、論文掲載の報告、基礎医学また博士号研究等が学年別に報告される。教授はもとより先輩医師の学者ぶりや高度マエストロぶりにいつもあこがれをいだかせられた。半面、いぶかしがられる先人にどうどう反発をする後輩医師もいて、なかなか人間模様が複雑であった。
しかしながら、先輩は絶対的存在という軍隊的発想はいまだ衰えずの感があり、
これがまさに大学医局の年功序列なのである。


大学の医局には各科別のトップに主任教授が一名在籍する。会社でいうと部長にあたるのだろう。時に院外教授が一名、主任教授が特に優秀と認めた医局スタッフのセカンドで名目とも教授の器の医師が専任されている。そして助教授が1〜2名、講師が2〜3名、これらがいわゆる役職である。その下に助手が数名いる。いわゆるスタッフドクターと言われる医師は助手以上を指し、助手の位から大学から給与が出るのだ。
研修医を卒業し専門医試験に合格し、めでたく専門医と認められても、医師は大学ではなかなか助手にはなれない。席が空かないのだ。このような若手医師は前期助手等と呼ばれ、医局には属しても給与は支給されない。

この時期、若手医局員はバイトで日銭を稼いでその日暮らしをする。夜勤はもはや常識である。48時間勤務も「普通」、労働基準法なんてまったく無視されている。
研修医(レジデント)とは医師国家試験に合格し世間体には医師になった後、医局入局試験に合格した、修業者達である。入局後7年にわたり専門医になるべく訓練を積まされるのだ。研修医はれっきとした医師ではあるが「半人前」のレッテルである。がんばらないと7年後の専門医試験に落ちてしまう。


しかし、「一人前」と言われる「専門医」になるには7年も冷や飯を食うわけでこれがかなり辛い。医学部に入る前に浪人し、医学部時代に留年し、医師国家試験も数回落ち、なんて人生を無駄にしてしまった者にとって、その後の専門医への7年の月日が長過ぎて、「もう!やめだ!」とばかりにドロップアウトする輩も多いと聞く。
例えば、脳外科を目指していた若い医師が5年でドロップアウトして、次に形成外科に入局してもそこからまた7年なのだ。
試験に弱い御仁もいる。けっしてぼんくら医師とは思えない人が
「おれ、来年になっちまった・・・」
とがっくりしている事もある。


この研修医時代最大の「華」が「初切り」である。
各大学の教室(これを医局とも言うのであるが)にはテーマとなる治療法や研究がある。
私の属している大学の形成外科学教室では唇裂、口蓋裂がメインテーマである。だから、我々にとって、研修医時代にはじめて唇裂や口蓋裂の手術することが「初切り」なのである。


もちろんいきなり手術をするわけではない。初切りまで4年間くらいは教授や先輩の手術を幾度となく見学する。毎週のように勉強会で知識をたたき込まれる。それだけではなく助手として手術に参加し教科書では得られない実技を学ばせてもらう。
例えば、小さな三角形の皮弁の角度やその位置により微妙に口唇の形態を変えていく技、意味のないようで実は要となる一本の糸、等々。
しかし、教授や先輩達は甘くはない。

「先生、今の縫い方は何かわけがあるのでしょうか?」
「うむ、よく気付いたな。実はな・・・」
と、先輩や教授を攻めていかねば何一つ教えてくれない。
そして、彼らはひそかに我々を評価しているのである。
(そうか、こいつも大分分かってきたようだ。)
となって、はじめて初切りをさせるという手順なのだ。  


わたしの属していた大学病院では「十八番(おはこ)」というくらい形成外科が有名で手術件数も日本でトップをキープするくらいであったから、火曜と木曜の大学病院の手術室はほとんどが形成外科の手術で埋め尽くされていた。
当時のこの大学病院の中央手術室はかなり古びていた。まず、壁がお風呂屋さんのようなタイル張りであった。そろそろモジュラー手術室といわれる薄いグリーン色のホーロー敷きの壁があたりまえの時期にである。
12台の手術ベッド数も大学病院としては少ない方であろう。こんな中で1日40件にも及ぶ手術が行われていた。
なんといっても唇裂や口蓋裂の手術が軒を並べるのだ。
時に顔の骨の奇形や耳が無い子供、指がくっついていたり欠損している赤ちゃんもいる。
交通事故等で受けた顔の傷痕、顔面骨の骨折。
時にやけどの植皮もある。


その中で私を魅了していたものは目や鼻の微妙な形態形成の手術であった。
眼瞼下垂の手術では、二重まぶたを形成しながら目をぱちり開くようにする。手術する前と後では患者さん全員がとてもかわいらしく変化するのだ。
機能の改善だけでなく人としての美しさを表現する芸術的な手術だと感心したものだ。
鼻の手術も微妙だ。目のように派手ではない。しかし、気品さとでもいうのかとてもスマートな手術だと感じた記憶がある。
とにかく頭のてっぺんから足指の先まで、全身あまねく手術対象とするのが形成外科であった。


さて、この赤ちゃんの主治医は私である。まだ、生後3か月。
やさしそうな麻酔科のベテラン医師により深い眠りに落ちている。
右側の鼻の穴から唇にかけてきれいに割れている。まだ、歯は生えてない。
目が大きく二重まぶたがくっきりした、とてもかわいい女の子だ。
どうして口が割れて生まれてしまったのか?
原因は分からないが、世界で最も多い奇形である。


麻酔科の医師に挨拶をし、ピオクタニンという青色のインクと消毒した爪楊枝で赤ちゃんの唇に手術のデザインを描く。
基準点、それから伸びる線。
ポイントは小さな三角皮弁だ。この大きさや角度が手術後の上唇の弓状形態(キュービットボウ)に大きく影響を与えるのだ。
隣に座る講師のH医師を振り向きながら、
「こんなもんでいかがでしょうか?」
「これで縫ったら、左と右が合わないジャン。三角も・・・ほら、上過ぎない?ねえ!」
という感じで、自信たっぷりのデザインは虚しく消え去るものである。


おおよそデザインができても教授にチェックしてもらうまではメスを入れることは許されない。教授はあちこちの手術台を回っているため、しばらくはウエイティングだ。

「どうだ?・・」
やっとボスのお出ましである。赤ちゃんの顔に描かれたデザインを見たのはほんの一瞬だった。
「まあ、よかろう。始めなさい。」
「ありがとうございます。」顔をあげてみたが、教授はもう後ろ姿である。
H先生を見る。ちょっと眉を上げうなずいた。


「お願いします!」
これが手術始まりの恒例の挨拶である。
メスを皮膚に入れた瞬間が手術の始まりではない。術者が「お願いします。」と軽く頭を下げるのが、どんな科の手術でも手術始まりの合図なのである。
術者が麻酔科医、看護師、助手に「この手術がうまくいくように協力してください」と挨拶をする一種の儀式なのかもしれない。


手術そのものが初めてではないのでデザイン自体が信じられれば、メスはとどこおりなく進む。ただし、形成外科は細かいメスさばきを要求される。メスの勢いは大切だがスピードは禁物であろう。
特に初心者なればなおさらである。次から次へと先を急ぎたくなる気持ちを抑えるのだ。
口輪筋のつり上げ作業にさしかかった。簡単なはずだったのだが、うまくこのあかちゃんの口元が表現できない。
「あれえ・・・?」
「・・・・・。」
H先生は何も言わない。しばらくすったもんだする。
ついに耐えきれず、
「先生・・・。」
「支持部位が筋の端すぎるんだよ。ちょっと中に針をいれてみい。そおそお。筋が少しだけ回転するだろ。で、しっかりANSに縛り付ける。どおだ。」
「なるほど!了解です!」
「君が最初にやった感じでいい場合もあるけど、口角が下がっている場合はこんなテクもあるのさ。」
そういえば、大分前に先輩が手術中悩んでいたっけ、なるほどね。
あの時はまるで分らなかったし、気もつかなかった。


小三角弁の縫合に入る。縫合針をさらに小さいものに変える。
ここで意外に深く針を通すのがコツだったはず。
なんとか通った。と思ったとたん、
「ダンチ!・・やり直しだ。」
H先生の激が飛ぶ。
皮膚の縫合面が段違いになっているということなのだ。さすがよく見られている。
形成外科の縫合には「まあ、いっか。」という妥協は許されないのだ。
今の私は顕微鏡を使って完璧を狙っているが、思えばこのときから皮膚と皮膚の縫合面の高さを合わせに躍起になり始めたのだろう。
そして手術手技は終了した。あまり手術時間が長いと指導医にメスを取られてしまう。おそらくぎりぎりだったと思う。
しかし、まだ手術は終わっていない。教授の最終チェックが入るのだ。
看護師が教授に終了を伝えに走る。


厳しい表情からふと目元がほころび、教授は一言告げる。
「どれ。・・・ここがちょっと長すぎるなあ。・・・あとはいいか。H先生あとはよろしく。」
「ありがとうございました。」
後ろ姿の教授はちょっと手をあげるといそいそと立ち去った。


最後の教授指摘部分を修正し、やっと手術を終了する。
手術終了の合図は皆に向かって
「ありがとうございました!」
と挨拶をするのである。
麻酔科医師が全身麻酔をさまし、あかちゃんが鳴き声をあげはじめるのを待つとしよう。


こうして行われた手術結果は教授の行なったものとほとんど差は無い。確かにデザインや手順はまず私が考えたものだが、実技では次々に修正されていく。ある意味で「教授流」になっているのである。
細かな技術も細部にわたり教授の技法が伝授されているのだ。
縫合技術さえしっかりしていれば唇裂初心者の私でさえ、その手術は完全に教授の、模倣として完成度は高いのだ。
大学病院という研修場所で私たち若手医師は次の世代の師匠と呼ばれように、秘密の技を伝授してもらうのである。いずれは独立しどこかで師匠とよばれる時まで日本最高位の医師から奥義を盗み自分のものにしていくのだ。


患者さんの口コミや評判の中に、「・・の病気なら・・病院がいい!」というのがあるが、これはつまり、その病院には師匠がいるということなのだ。
もちろんそれをあがめる弟子も多数集まってきてレベルが全体に高いのである。
その師匠に初舞台を仰せ付けられれば、医師としていっちょまえの第一歩であろう。
しかし、まだ、道は遠く長い。

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